電動車いすに乗って…30年!

電動車いすのハンドルを握って30年!

   第一章…卒業後~地域の作業後へ

1、『母と歩いて40分!』

 初めまして~僕は、かんちゃんです。〔ニックネーム〕本当の名前は

寺内隆(てらうち・たかし)です。昭和38年(1963年)生まれです。

50歳です。世間一般では“おっちゃん”と呼ばれる存在になりました。

 自分は、若いつまりで‥頭の中は、小学校の低学年の知識しかない僕なの

です。そんな僕の話を聞いてもらえば~嬉しいです。

 僕は、昭和58年(1983年)に大阪府堺にある支援学校(養護学校)の

高等部を卒業した。僕が高等部に入学した年~“養護学校義務化”が始まった

年で‥僕も含めて“最重度障害”と呼ばれる生徒たちが42名入って来た。

“最重度”と呼ばれる友達と3年間学校生活をおくりました。

僕も“最重度障害”で‥卒業後は、就職もできない、大学も入学のできない、

どこも行く所がなく~在宅生活しかなかった時代でした。

 僕は、在宅生活を送るよりも‥〔自分で身の周りが出来るようになりたい〕と思って施設に入ろうと思ったけど‥親に大反対されて結局残念した。

 行く所が決まらずに卒業した。僕は、(これからの先の不安)を抱えながら‥

卒業して1ヶ月経ち~暖かくなった5月頃、母親が「隆、作業所へ見学に行く?

」と隆に言った。隆は「作業所って~どこにある?」と、母に聞いた。

母は、「父母の会のやっている雑草の家よ」と言いながら“父母の会だより”の

機関誌を見せてくれた。隆は機関誌を読んで‥“最重度障害者の生きがいづくり場雑草の家”の書いた内容だった。僕は、あんまり乗り気がなかった。

 その機関誌をよく読んだら‥“通うのは、週2回だけ火曜と土曜~それも親と一緒に通ってお料理とかおやつ作り等を楽しみながら‥”の所でした。僕に

したら、はっきりと言ったら~〔親と一緒に趣味のようなやる所は〕と‥あんまり乗り気がなかった。

          ―1

想像していたどうり~在宅生活を送る中で、僕は何もやる事もない中で本を読むしかなかった毎日。僕は(これからの先はどうなるのかな?)と、ますます

不安になってくるし、そんな僕を見て母親も不安になってお互いにイライラして口げんかになる事が増えてきた、母親は、家で内職で…“電気の部品”を袋

づめをやってて‥簡単に作業だったので、母のやっている作業を見て、僕は母に「僕もやる」と言ってみた。母は「やってみる?手の訓練になるし…」と言ってくれた。

 一つ袋づめをして3円をもらえる。僕は一つ袋の中に部品を10分かかる、

母は、10分の間に100個を袋に入れる。それでも僕は作業を続ける。

でも僕は、ちょっと仕事をしているような気持ちになる。この気持ちが…後の

僕の“自立に繋がっていく”になる事は、この時は想像も発想もつかなかった

そんな毎日を送る中で、僕はふっと母に言われた(雑草の家に一回いこう)と思い始めた。その事を母親に話をした。母も「一度言ってみる?」と言って、

“雑草の家”の代表の児島さん電話をしてくれた。児島さんは、僕は中学校時代の時、“東住吉区父母の会を作るので‥父母の会に入って下さい”と話をしに

来てくれた事があった。それ以来会っていなかった児島さんが‥僕の事を覚えてくれて~「是非、一回来てください。」と言ってくれた。
 “雑草の家”は、月に一回~大阪市にある“障害者スポーツセンター”に行って、スポーツをしたりみんなで食事をしたりして~楽しく過ごすという企画

だった。

 みんなのスポーツセンターに行く日に‥初めて僕もスポーツセンターに行って“雑草の家”のメンバーと会う。その日は暖かく~スポーツセンターまで母に車いすを押してもらっていきました。40分かけて…。

 センターに着いて、2階にあるレストランに行くと‥メンバーと親15名ぐらい集まっていた。母は、児島さん達を見て~「こんにちは、これからヨロクお願いします」と挨拶した。児島さんは、僕と母を見ながら「寺内君、よろしくお願いしますね」と挨拶してくれた。児島さん達と一緒に‥テープルに座って食事をした。昼からは…“ポーリング”や“卓珠”や“水泳”など~それぞれに分かれて自分のやりたい“スポーツ”をやる。僕は“ポーリング”をやった。初めて母と一緒~楽しくやった。久しぶりに母も僕も汗をかいていた。

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by kan-chan1963 | 2018-06-14 20:17 | Comments(0)

まいど! かんちゃんです。波瀾万丈な人生+ポエム・エッセイなどを綴っていきます。


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